外界との境界線をなくすことの大切さPart1(私の中の私を綴る)

アクセスコンシャスネス

私の中の私を綴る。。。Part1を長々と書いたのに上書きしてしまった。これはPart1はアップするなということかなと。抗わずに改めてPart1を書き始めよう~

何を書いていたかというと、小学3年生の頃から起き始めた学校生活での辛かったこと。明るい話ではないし、重いし、書くのはどうかな…と思いながらも、似た思いをしたことがあって、今に幸せを感じられない人が居るとしたら、何かの気付きやヒントになればと思って綴っています。まとまりのない文章なところはご容赦ください。

私の通っていた地域では、3年、5年で学年内のクラス替えがありました。3年生のクラス替えの後、リーダー級の女子が4人程、同じクラスになりました。それぞれのクラスでのやり方が新しく取り入れられたり、リーダー級の女子の間で、政権争いのような力比べがあちらこちらで見受けられました。私は、そういうのは苦手なので、どちらかというと男子と一緒に遊んでいた記憶があります。女子と遊ぼうとして、仲間に入れてと言うと、「私たちの言う通りに従ってくれるならいいよ。」と言われたこともしばしば。私は、おかしいなと納得がいかないなと思うと、自分の意見をはっきり言う方だったので、周りからすると疎ましく思われていたのかな。

ヒトの悩みや意見を聞いていると、その人の本質や根本的な問題となるようなところが視えてしまって、「もっとこうしたらいいのに!」と良かれと思って言っていたことも多かったです。

きっと、こういうのって言われた方はムッとするし、自分を攻撃されたと思って、反撃してしまうよね。子供の頃の記憶なので、曖昧なことも多いけれど、知らず知らずのうちにクラスメイトを敵に回してしまっていたのかもしれません。

小学3年生の1学期があとひと月程という頃に、クラスメイトと大喧嘩をした記憶があります。それ以来、何かにつけホームルームでの『問題提議』という議題の中で、私が指摘され始めました。内容は「男子を呼び捨てにします」「女子と遊びません」「言葉遣いが悪いです」などなど、段々と内容はエスカレートしていきました。「男子を呼び捨てにする」に関しては、実はある男子から呼び捨てにされたので、どんな気持ちになるのか知って欲しくて同じように言い返したというもの。

このホームルームの『問題提議』は、裁判のような形式でした。クラス44人いる中で立たされ、「何故そんなことをしたのですか?」「反省はしましたか?」「今後どのようにしていきますか?」「全員の前で謝ってください」というものでした。

1週間のうちに『問題提議』に提議されない日は1日あったかな。ほぼ毎日のように何かを注意される。否定される。そのうち、机の中の教科書も一緒にひっくり返されたり、上履きを外へ捨てられたり、アトピー性皮膚炎が少し出ていたことを「ばい菌」と言われて、鬼ごっこのように私に触れた後、付け回ってキャーキャーふざけて「汚ねー!」「池田菌だ!」「逃げろー!」って。悔しいという気持ちも出てこなくなっていました。

小学4年生に上がる頃には、「私は汚いんだ」「みんなと一緒に居てはいけない存在なんだ」「誰も私のことは受け入れてくれないんだ」と繰り返される体験から深く深く学び、他者との間に境界線を創り、シャッターを下ろしてしまいました。

小学5年生になるとクラス替えして一緒になったクラスの男子からさらにしつこく嫌がらせを受けるようになりました。仲良くしてくれたお友達に対して「池田と仲良くするとどうなるか思い知らせてやる」と彼女のカバンを投げ捨てられたり、外履きを投げ捨てられたりと。彼らから発せられる言葉は「先生にいいつけたければ、どうぞ!職員室はあちらです~」と嫌がらせは卒業式の当日まで続きました。

担任の先生に対しては、何もいうつもりもありません。楽しい思い出も記憶に残らないまま6年間の小学生は卒業しました。

心の中には、深い傷と、「私は存在してはいけない人間」「汚い人間」という自己否定が形成されていました。

ヒトの心や人格形成は、10歳頃になると子供から大人へと大きく変化を始めると言われていて、この頃はとても大切な時期ともいわれています。この時期には、自己受容や自己肯定感を高めることを推奨されているのですが、私の場合は、真逆でした。強い自己否定と自己ジャッジを沢山体験して確固たるものにしてしまったのです。

強い自己否定と自己ジャッジを身に着けた私が、その後の社会生活で順調に生きていけるはずもなく、定職に就いたかと思えば、会社が残念なことになり退職。御縁を頂いて勤めた会社からの正社員へのオファーも受け取ることができず。結局、何十年もアルバイト、契約社員、派遣社員と恋愛も含めて安らぎと歓びと幸せを感じることからは遠かったと思います。(今になって思い返すと、沢山の愛や豊かさや歓びは受け取っていたのですが、そういう幸せの部分には意識が向けられておらず、『ない』ところにだけ意識が向け続けられていました。)

「何のために生まれてきたのだろう?」「何をするためにここに来たのだろう?」「アトピーというアレルギー体質で辛い思いをして、対人関係でも辛い思いをしてきて、何をしたくて生まれてきたのだろう?」

こんなことばかり、何十年も模索し続けてきました。今でもはっきりとした理由は分かっていません。ただ、最近感じていることは、この物質という肉体がある世界において、大切な方々と触れ合い、共に歓び、温もりを感じながら、この美しい地球で幸せというものを体感したいと思って来たのだろうと。

自己否定と自己ジャッジでいっぱいだった私が、自分を大切にして、自己肯定感が増し増しになってきたのには、沢山の方々との出会いやその時に選択したセッションが大きな助けになったと思います。

最初の大きな選択は、地元から東京へ出てきたことです。浪人を経てアメリカの大学の日本校へ進学したものの、色々な事象が重なり中退。もう一度学びなおしたいとお金を貯めようとするもののなかなか叶わず。東京で通い始めたバレエ教室の友人が大学の通信教育を受けていることを知り、翌年から短大の通信教育を受講し、短大の学士を取得。その後、大学へ編入し大学の学士を取得しました。友達も増え、興味のあった心理学コースを選択し、子供の頃の出来事を検証していきながら、ひとつひとつ自分の中で消化(手放し)していきました。大人になってはじめて、俯瞰してみれるようになっていました。この間もたくさんのワークを日々行っていました。有名なところだと、『ホ・オポノポノ』。心理学コースの友人から勧められた『嫌われる勇気』というアドラー心理学や大学の講師から聞いたリアルな刑務所で服役中の方々とのお話(もちろんご本人に許可を得ての内容です)なども、ヒトの心が起こす様々な事象を知ることを助けてくれました。

他者との境界線にシャッターを下ろしてしまった私でしたので、なかなか現実は理想通りには動いていなかったと思います。他の人はどんどん現実化して叶っているのに、何故自分は叶わないのだろう?と真剣に悩んでいました。(実は、叶っていたんです。深層心理で望んでいたことがね。叶わない事ってこの世界ではないらしいの。この頃の私は、この仕組みが分かっていなかったしね。)

スピリチュアルカウンセラーとして仕事を開始したものの、なかなか思うような現実とはいえず、派遣社員としてのライフスタイルが続いていました。職場ではいつも改革のような部署に配属され、混沌とした組織の問題を綺麗に整えて、疲れ切って辞めてしまうという繰り返し。何度も繰り返される状態から逃げていては、また同じことが繰り返されるだけ。しっかり課題を観察して、クリアしていかないとダメだと思い、本当に色々なセミナーやセッションを受けては答えを探していました。

今思い返すとスピリチュアルな成長と自己探求、宇宙の真理は、ずっと続いている課題であり、興味であったと思います。

ひとつひとつ玉ねぎの皮を剝くように自分が身にまとった鎧を剥がして脱いでいったはずなのですが、何かコアな部分にある目を背けたいものを感じていました。もがいてもそこに触れそうで、どこか避けていたんですよね。過去世の記憶のようなものが出てきては、号泣することがあったけれど、その部分には触れることが出来ませんでした。(玉ねぎの皮を剥くようなことをしている方がいたら、皆さんはしないでくださいね!どこまで剥いても終わりはありませんから)

この何か身にまとっていて脱ぎきれない鎧をスルっと脱ぎ捨てることが出来たきっかけが、東京へ来て10年以上が経っていました。もう少し早くならなかったのかな?とか思うこともありますが、なかなか強固でした。何十年もの間、身にまとって自分を守ってきたのですから。。。

***続きはPart2へ

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