小さな頃からの私の疑問。
なぜ人は、人と争うの?
同じ人どうしなのに
ほんのちょっとの思いやりが、優しさがあれば、
お先にどうぞ!って、あなたもどうぞ!って譲り合えるのに
そうしたら、競争とか勝ち負けとか、人と比べるとか、争いとか
世界中からなくなるのに
大人になって学んだ心理学。アクセスコンシャスネスでの学び。そこから見えてきたことなのだけど、「境界線」「テリトリー」というものに小さな頃から、どことなく嫌なイメージがあって、私自身、「俺のテリトリーを犯すな!」というニュアンスの言葉を耳にするたび、重い感覚を感じていました。ゆえに人のテリトリーに踏み込むことを極端に嫌っていました。こういうことで嫌な思いをした経験があるというのも理由のひとつです。
「テリトリー」「境界線」は、争いの始まりなのだと感じるのです。自分の敷地に入って来られると自分が脅かされるかもしれない、という不安が恐怖を呼び込み、防衛を始める。開かれていないハート(心)は、相手を受け入れない。もっと深く云えば「自分に自信がない」ことがあるのかもしれません。「自分を自分で受け入れていない。大切に、尊重していないのかも。」
たしかに、一国の長ともなれば、周りからやれなんとかだ!とか責任が!とか誹謗中傷の嵐となって、自分のプライドを守ろうとするあまり、より保守的になって、テリトリーを強調するようになるのかもしれない。
そもそも誰のモノでもないこの地球。この宇宙。視野をもっともっと高く、広く見れば、感じれば、私たち全員が宇宙であり、地球であり、隣にいる一人一人と同じ存在(エネルギー体)なのだと。
エナジーの境界線というか課題の分離というものが、ある意味では大事なこともあるかもしれないけれど、元はひとつのエネルギー体から始まったと感じているので、そんな誰とも壁がない世界になったらとずっと思っていた。
毎日、人との壁を感じ、性別の壁を感じ、それを強要されたような気さえする幼少時代。地域の文化というのもあったのかもしれない。男性優位な風習はあったし、「女のくせに男に口ごたえするな!黙ってろ!」って、今の時代なら大問題な発言だけど、小学や中学時代の同級生に言われたことがあります。社会人になって、会社の飲み会では、「女はおしゃくするものだろ!コップに半分位になったら、つぎ足すものだろう。気が利かないな!」と言われたこともあるし。
オーストラリアから帰国後、新卒ではないけれど就職活動である会社へ面接に伺った際に、「どうせ、彼氏でも出来たら結婚して辞めちゃうんでしょ?君の年齢だと。。。そろそろ結婚しなくていいの?」と面接官に質問された時は、なんて失礼なんだろってムッとした気持ちを抑えるしかありませんでした。既に既婚されていて、海外から帰国した同僚に面接時の話を聞いて驚いたのだけど、「子供の予定は?子供が出来たら辞めちゃうの?」って聞かれたよって。
今でこそ、父親の職業を質問することや母親が共働きだとダメだという判断はNGってなったけど。新卒で入っていた先輩に何故この会社に入社したのか聞いてみたら「結婚に有利じゃない。大手だと。」っという返事にこういうモノの見方もあるんだって思いました。全く考え方が違うとは思ったけど、それにしても本当に好きな仕事だからこの会社に入ったという人は、大先輩の尊敬していた方と数人だった記憶があります。
私は、オーストラリアでの就労ビザを取りたくて、同じ業種に勤めて、自力で勉強して国家資格も取得した。目的は海外移住。でも結局、それは難しくて行くのを諦めてしまった。本当に難しかったのかな?って今のわたしなら思うかな。もう自分をダメダメ人間って思ってたから、そんな選択肢しか目の前に見えてなかったのだと思う。
目の前に見える世界は自分の潜在意識が創っている。
だとするならば、どんな今という未来を創りたいだろうか。私は。
みんなが笑顔で温かい気持ちで過ごしている世界。そうであるなら、私はどんな気持ちで日々を過ごしてる?その気持ちを今、ここ、で味わおう。
すべての事柄は、私、今、ここ、からはじまる
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